続々・運と努力について

何人かの方にアンケートを取らせていただきながら、『運』『努力』について、引き続き考察を深めています。


このテーマに正解はなく、人によってどちらに重きを置くかが違うだけ。
その良し悪しをジャッジしない(というか、できない)点を、個人的に清々しく思っています。

一方で、アンケートを取らせていただいて気づいたのは、そもそも『運とは何か?』『努力とは何か?』の定義が、人によってマチマチだということ。
学術的な研究であれば、まずはその統一から始めるべきでしょうが、ガチガチにするとおもしろくないので、そこも手放しています。

つまり、『その人の定義で、その人の配分』という塩梅です。

そうした考えに寄っているのには理由があります。
数ヶ月前まで、メタバースやAIなど最新の動向に思い切りひたっていたのですが、「どうも、日本全体の動きは鈍いぞ」と強く感じはめたからです。

最先端の技術はさらにガンガン進み、個人的には引き続きそちらも追いかけていきますが、サイニック理論が指摘している最適化社会(2005〜2025年)は『最先端にそまる』ことではなく、『各自が、それぞれの時代性を選択する』ことではないか?
最近は、そんな風に感じています。

たとえば、アメリカではChatGPTをカスタマイズして公開できるGPT Storeがオープンしました。
やがて日本でもオープンすると思いますが、その時にも、やっぱり3種類の人に分かれると思うんですね。

・自分でカスタマイズして公開する人(や企業)
・誰かがカスタマイズしたGPTsを使う人
・まったくタッチしない人

で、比率的にはこんな感じでしょうか。

・自分でカスタマイズして公開する人(や企業):8%
・誰かがカスタマイズしたGPTsを使う人:17%
・まったくタッチしない人:75%

ただし、アマゾンやYouTubeのオススメをAIがしてくれているように、「そうとは知らずに使える」ようにもなるはずで、そうなると『まったくタッチしない人』は、「インターネットで調べものをしない人」になっていくかな。
とはいえ、その層も一定の割合にはなるはずです。

そして、最適化社会の先にある自律社会(2026〜2032年)とは、以上のことわりをわかった上で、『自分で自分の選択を肯定する』時代なのだと思います。

生まれる時代は選べません(=運)が、どの時代性を生きるかは選べる(=努力)ということです。

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