感謝と希望はつながります

わたしは人生を豊かにするのは『感謝』『希望』だと考えていますが、昨日は『感謝』について書いたので、今日は『希望』について思うところをつづってみます。

『感謝』『今ある状態』に対する反応として気持ちを過去に飛ばすのに対して、『希望』は気持ちを『いずれこうなるだろう』という善き未来から引き寄せる営みです。
それをそのまま『引き寄せの法則』と言ってもいいのですが、いきなりスピリチュアルに行かなくても、わたしたちは自然にそうした感覚を使っています。

「このお菓子、美味しいだろうな」というのも、希望の一種です。
つまり、わたしたちは、日々小さな希望をたぐり寄せて生きているんですね 😊

そして、人が最も大きな『幸せ』を感じる瞬間は、何かを達成した後ではなく、達成する間際。
たとえば、アイスクリームを口に入れて味わっている時にも幸せは感じられますが、感情がマックスになるのは(統計的には)フタを開ける時だそうです。

人間が心地よさを感じるには『記憶』が大きく関係しているので、その記憶が『確かな期待』として最大値にふくらむ瞬間が、実は『幸せ』という感覚の正体と言えます。
希望をもって進む道は、幸せで彩られているわけです。
だからこそ、過去がどうあれ、顔を上げて『希望』が持てれば、幸せな道に踏み出したことになります。

ところで、一旦『感謝』の気持ちは「過去に飛ぶ」と書きましたが、『希望』との関係で言えば、本当は未来にも『感謝』のイメージを投げることができます。

というのも、人が悪態をつくのはものごとがうまくいかない時であり、感謝の念がわくのはうまくいった時。
つまり、未来のできごとが首尾よくいくのなら、その時、人は『感謝』を感じるはずなのです。
つまり、『希望』を持って進んだ先には『感謝』があるんですね 😊

そして、未来の感謝の種は『今』にこそあります。
今起きている現象がどんなことであっても、それが未来の『感謝』につながるのだとすれば、現象の中に『希望』を見い出すことができます。
少しばかり練習が必要ですが、ものごとの善い面にフォーカスしていくと、感謝と希望のサイクルはスピードアップします。

『感謝』『希望』って、実はセットなんですね ❣️

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1億人への感謝

ここ2ヶ月ほど、あまり目立った動きをせず、やや緩慢な日々を送っています。
こんな感じは人生で初めてのこと。
ただし、一旦『緩慢』と書きましたが、悪い状態ではなく、気持ち的にはすこぶる穏やかです。

原因は、昨年の後半、コロナとインフルエンザにかかったからなのでしょう。
喉の痛みが『無い』だけで、「嬉しい」と思えるのです。
なにしろ、コロナの時には、つばを飲み込むだけで七転八倒する痛みだったので……
裏返して言えば、健康が『有る』ってことかな 😊
誰しも病気が治った直後は「健康ってありがたいな」と思うものですが、その感謝が持続している感じです。

ふと、明石家さんまさんが娘さんに「生きてるだけで丸儲」という意味で『いまる』と名付けたことが思い浮かびました。
当時は、思い切った命名だと感じましたが、今は「なるほどなぁ」と納得できます。
ちなみに、確認のために検索をかけたら、母親である大竹しのぶさんは大反対だったという記事が出てきました ❣️

大竹しのぶ、娘の名前・IMALUへの思い「私と、母は大反対」「今では娘は誇りに」 : スポーツ報知  女優の大竹しのぶが11日、自身のインスタグラムを更新。元夫のお笑いタレントの明石家さんまの座右の銘から名付けた長女のタレ hochi.news

幸せを感じるために、今有るものを一旦『無い』状態で想像してみるというワークがあります。
電気や水道、あるいは身体器官のあれこれなど。
そうすることで、今の状態が奇跡に感じられるというものですが、ワークはやっぱりワークなので、わたしのようにひねくれた人間には響き方が浅いんですよね。
頭ではわかっても、なかなか腹まで落ちません。

その点、昨年の病いは、熱いお灸をすえられた感じだったわけです 😊
もちろん、世の中にはもっともっと大病を患った方、今現在も患っている方がいらっしゃいますが、わたしの場合はデフォルトが健康体だからなのでしょう。
そうした身体をつくってくれた、ご先祖さまの連なりにも感謝です。

そう言えば、28代さかのぼると、ご先祖さまは1億人になるのだとか……
「1億人に対する感謝」って、日本人全員に感謝するような感じですね。
壮大だなぁ……

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今は逆向きのコペルニクス的転回期

1970年に発表されたサイニック理論は、驚くほどの予見性を持っていましたが、それでも半世紀経てば現実の状況は変わります。
その変化にあわせて、サイニック理論自体を進化させようという内容です。

サイニック理論と同名書籍については、以下のサイトをご覧ください ▼▼▼

未来への羅針盤「SINIC(サイニック)理論」 | 企業理念経営について | オムロン 経営の羅針盤としてオムロンに息づく「SINIC理論」とはいったいどのようなものなのでしょうか。 www.omron.com

SINIC理論 – JMAM 日本能率協会マネジメントセンター 「人・組織・経営の変化」を支援するJMAMの書籍 pub.jmam.co.jp

昨日の議論で印象的だったのは、「用語が難しいです……」という感想。
わたし自身は人文系の学徒だったこともあり、そこはあまり気になっていませんでしたが、「言われてみれば」という気もします。

一方で、現在は『セカンド・ルネサンス』あるいは『リバース・ルネサンス』と称されます。
『セカンド』の方は『2度目』なのでわかりやすいと思いますが、『リバース』の方はやっぱりちょっと専門的でしょう。
そのあたりを、少し解説してみます。

ものすごく簡単に言えば、ルネサンスに起きたのは、あらゆることの逆転劇でした。
コペルニクス的転回と言われる天動説から地動説への逆転、遠近法という逆算画法、反転した版をつくる印刷技術……。
中でも、『人』『神』の関係性の交代は、価値の根本的な反転でした。
「神によってつくられた人間」というイメージから、「神話も人間によってつくたられた」という認識に変わっていきます。

結果、人間は(ルネサンス以前の)中世的な謙虚さを手放し、『霊長類』としての自信と誇りを身につけていきました。
ただし、行き過ぎた自信は傲慢さに変わります。
その傲慢さこそが、『近代の病い』だったと言えるでしょう。
『人間中心』という考えはある程度までは美しいのですが、「人間さえ良ければいい」では破滅します。

そのあたりに気づき、今一度『謙虚さ』を取り戻そうとしている状態が『リバース・ルネサンス』です。
幸い、AIの能力の高さが、わたしたちの小賢しさを戒めてくれるようになりました 😊

ざっと図にすると、こんな感じです。

画像

シンギュラリティを迎えれば、否応なしにAIの影響力は増大します。
人によっては、謙虚さを通り越して卑屈になってしまうかもしれません。
そうならないように工夫をしていきたいところです。
確実にAIの能力は人間を凌駕しますが、人が大切にすべきはやはり『人』であり、「能力の多寡で競うことから解放される」のは喜ばしいこと。

いずれにせよ、現在は人類史上の大転換期。
『自信』『謙虚さ』の両方を持って、清々しく生きていきたいものです 😊

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それぞれの希望にあわせる時代

「Auracast(オーラキャスト)」という、新しいBluetooth技術があります。
パブリックスペースでの音声選択ができる仕組みです。
これ、ありそうでなかったアイデア/製品だなぁ、と思います。

https://forbesjapan.com/articles/detail/68473?utm_content=order-9&utm_source=newsletter&utm_medium=email&utm_campaign=939-daily&fbclid=IwAR2Rxf5lfL8eFzvGCW-BLCBW4pd9fQQNqRlEQ6S4TlMVggcQGfUY37aypKg

特に、「乗客は自分のフライトの情報を、ターミナル内の騒音や他のアナウンスに邪魔されずに聞き取ることができる」っていいですね。
言語の選択とあわせて使えば、自分の受け取りたい情報をスムースに取得できます。


このところ、わたしはサイニック理論の『最適化社会(2005〜2025年)』について考えることが多いのですが、この技術などはまさしく『最適化』
こうした動向は、AIとの組み合わせでさらに進んでいくはずです。


振り返れば、大量生産の工業化社会は、人間の側がつくられた物やサービスにあわせる時代でした。
技術進歩の階段としては、そうした時期を経る必要もありましたが、やはり人がないがしろにされていた感は否めません。

『各自の資質や希望を出発点にする』ことが、これからの時代のやさしいパーソナライズなのだと思います 😊

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続々・運と努力について

何人かの方にアンケートを取らせていただきながら、『運』『努力』について、引き続き考察を深めています。


このテーマに正解はなく、人によってどちらに重きを置くかが違うだけ。
その良し悪しをジャッジしない(というか、できない)点を、個人的に清々しく思っています。

一方で、アンケートを取らせていただいて気づいたのは、そもそも『運とは何か?』『努力とは何か?』の定義が、人によってマチマチだということ。
学術的な研究であれば、まずはその統一から始めるべきでしょうが、ガチガチにするとおもしろくないので、そこも手放しています。

つまり、『その人の定義で、その人の配分』という塩梅です。

そうした考えに寄っているのには理由があります。
数ヶ月前まで、メタバースやAIなど最新の動向に思い切りひたっていたのですが、「どうも、日本全体の動きは鈍いぞ」と強く感じはめたからです。

最先端の技術はさらにガンガン進み、個人的には引き続きそちらも追いかけていきますが、サイニック理論が指摘している最適化社会(2005〜2025年)は『最先端にそまる』ことではなく、『各自が、それぞれの時代性を選択する』ことではないか?
最近は、そんな風に感じています。

たとえば、アメリカではChatGPTをカスタマイズして公開できるGPT Storeがオープンしました。
やがて日本でもオープンすると思いますが、その時にも、やっぱり3種類の人に分かれると思うんですね。

・自分でカスタマイズして公開する人(や企業)
・誰かがカスタマイズしたGPTsを使う人
・まったくタッチしない人

で、比率的にはこんな感じでしょうか。

・自分でカスタマイズして公開する人(や企業):8%
・誰かがカスタマイズしたGPTsを使う人:17%
・まったくタッチしない人:75%

ただし、アマゾンやYouTubeのオススメをAIがしてくれているように、「そうとは知らずに使える」ようにもなるはずで、そうなると『まったくタッチしない人』は、「インターネットで調べものをしない人」になっていくかな。
とはいえ、その層も一定の割合にはなるはずです。

そして、最適化社会の先にある自律社会(2026〜2032年)とは、以上のことわりをわかった上で、『自分で自分の選択を肯定する』時代なのだと思います。

生まれる時代は選べません(=運)が、どの時代性を生きるかは選べる(=努力)ということです。

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