忘れられる人のカッコ良さ

このところ、「過去と未来は記憶において、ほとんど等価だなぁ」という感覚を持っています。
物理的な世界では、過去につくられたは存在し、未だつくられていないは存在しないので、過去と未来は別ものです。
一方、たとえば目を閉じて考える『過去』『未来』はどちらも記憶の中だけに存在し、あまり違いがありません。

ところで、自己啓発では『過去と他人は変えられない。変えられるのは未来と自分』と説かれます。
変えられないものに執着するから苦しいのであり、「自分で変えられるものに集中しましょう」という教えです。

しかし、『今、ここにはない』という意味では、過去も未来もほとんど等価。
そのため、上記の成句は入れ替えられることもありますね。
人によっては、『過去(の記憶)は変えられるけれど、未来(の運命)は変えられない』と言われます。
ややこしい 😊

以前、友人から「バカの特徴は、覚えられないことと忘れられないことだ」と教えてもらいました。
『覚えられない』方は、イメージしやすいですね。
『バカ』という言葉の響きはよろしくありませんが、物覚えの悪いことは確かに能力の不足を感じさせます。

しかし、AIが発達して秘書になってくれれば、そのマイナスはかなりリカバリーされるはずです。
すると、残るは『忘れられない』こと。
これからの時代のフロントランナーは『忘れられる』人かもしれません 😊

わたしは『刻石流水/受けた恩義は石に刻め、かけた情けは水に流せ/借りた金は必ず返せ、貸した金は忘れてしまえ』という言葉が好きですが、水に流せる人ってカッコイイですよね。
それかな。

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王のマントは白くなる

あまり知られていない言葉ですが、『王の血染めのマントは三代目で白くなる』という一節があります。
どんな分野でも、『初代』は強い覇気に満ち、攻撃的な気質を持つものですが、代替わりを重ねるうちにその気質が薄れることの指摘です。
孫の代になると、血生臭さが抜けるわけですね。

道なき道を切り開く初代にも、その道を整備する二代目や三代目にも、それぞれに魅力があり、おのおのに苦労があります。
どの世代が善い悪いではなく、各自に役割があるわけです。

戦後、「武力闘争には負けたけれど、経済闘争で見返してやる」と考えた世代を初代とすれば、二代目を経て、今は三代目なのかなぁ、と思います。
前の世代から見れば、やる気がないように見えるかもしれませんが、Z世代やα世代がまとっているマントは白いんですよね。

つまり、いろんな社会課題は『三世代の同居問題』なのかもしれません。
願わくば、お互いの世代に敬愛と相互理解がありますように……

そろっていることは美しく、違っていることはおもしろい

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西洋美術史とはレシピである

わたしは岡田斗司夫さんを『現代日本の最高の知性の一人』だと思っていますが、昨日見た動画も大きな示唆にとんでいました。
テーマは『西洋美術史』ですが、いかにそれが日本人にとって関係ないものであるかを、例によって、おもしろおかしく語ってくれています 😊

わたし自身は、小さい頃から絵を描くことが好きだったので、長じて美大に進み、西洋美術史をガッツリ学びました。
思えば、その『日本人に関係のない教科』に通じたことが、人と違った指向に拍車をかけてしまったのでしょう 💦

ともあれ、その勉強は完全にムダだったわけでもありません。
上記動画では、ヨーロッパの歴史/近代主義を理解する上で、力の中心がキリスト教関係者から王侯貴族にうつり、やがて市民にまで解体されていく過程について語られていますが、そのダイナミズムを美術ほど端的に感じさせてくれるものはないからです。

大雑把に言えば、こんな流れになります。

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世界の中心は神であり、キリストでした
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やげて『力』は、神/キリストから教皇へ
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さらに、教皇から王侯貴族へ『力』がうつると……
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市民「やってらんねぇ!」= 革命が起きました
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市民文化の開花

日本は、以上の流れを自分たちでは体験しないまま、明治維新で丸っと輸入したわけです。
輸入をした以上、岡田さんが誇張して言われるように「全く関係ない」わけでもないんですが、ありがたさが薄いことは事実ですね。

こんな風にも考えられます。
モダニズム/近代主義をひとつの料理だとすれば、西洋美術史はレシピにあたる、と。
見よう見まねで再現できる人もいれば、本場のレシピを知りたい人もいるでしょう。
西洋美術史を学ぶとは、わたしたちの生活の土台を知ることだと言えます。

ちなみに、「日本人には関係ない」と言いつつ、岡田さん自身はそのレシピに通じているからこそ、先が見通せているんですね。
『評価経済社会』の先見性とか、本当に見事です 😊

▲ この動画の18:20あたりから。圧巻です 😊

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サイニック理論の『不良老人』問題

サイニック理論の未来予測はおおむね理想論的なものですが、問題意識が欠如しているわけではありません。
社会が自動制御され、競争よりも協創に比重がうつっていく反面、そうした進歩や変化を受け入れない/受け入れられない人たちが出てくるだろうとも見ています。
それが、タイトルにかかげた『不良老人』問題です。

別な言い方をすれば、昭和的な価値観やスタンスを手放せない人たちの存在ですね。
安芸高田市で起きている議会の機能不全の問題も、結局のところ、そのバリエーションなのだと思います。

安芸高田市は市長の発信力によって問題が明るみになりましたが、同じようなことは日本中の議会で起きているはず……
ただし、わたし自身はこの問題をもう少しデリケートに捉えています。

というのも、今後ますます技術革新は加速していきますから、『キャッチアップできない』ことは当たり前になると思うのです。
ましてや、『セカンド・ルネサンス』と呼ばれるほど、人類史上最も大きなパラダイム・シフトが起きているのだとすれば、全員が変化を受け入れられなくても当然。

つまり、「不良老人を更生させる=全員に時流の変化に追いついてもらう」よりも「不良老人と共生する=価値観の違う人を許容する」方が、現実的だと思うのです。
『他人を変えることはできず、変えられるのは自分だけ』という観点からも、後者のアプローチに可能性を感じます。

一方、別な視点で見るならば、時間のズレ(=時流へのスタンス)がある人同士で空間を共有(=同じ場所で生活)することに無理があるのかもしれません。
実は、同じような問題は100年前にも起きています。
ナチスドイツが押し進めたナショナリズムは、『この非常時に世代間の溝を深めるべきではなく、国家としてまとまらなければならない!』という論理に裏打ちされていました。
つまり、違いを力づくで解消しようとすれば、おかしなことになってしまうのです。

もしかしたら、アーリー・アダプター同士で固まり、ラガード同士で集えば、いさかいの種が減るのかもしれません。
もちろん、それはそれで別の問題が生まれそうですが…… 😊
ともあれ、ひとまずは「このあたりに問題があるよ」という意味のピン留めです。

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この時代を生きている喜び

『今』は本当に歴史的なタイミングです。
まさか自分が生きている間に、ルネサンスと同程度の(あるいは、それを超える)パラダイム・シフトが体験できるとは思っていませんでした。
運がいいなぁ〜 😊

ただし、それが括弧付きの体験であることも認識しています。
世界では引き続き悲しい戦争が続いていますし、日本国内にも問題は山積みですから。
セカンド・ルネサンスの喜びは、ある種の限定性を持っています。

もちろん、実社会にも希望はあります。
たとえば、安芸高田市の石丸市長さんの存在などは、とても大きいですね。
昨日は、古舘伊知郎さんとの対談動画に、何度もひざを打ちました 😊

これからは、自分の時代性を自分で選ぶ時代です。

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