どこまでが自分か?

教育家:森信三さんの言葉に次のような一節があります。

「人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。
 しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に。」

初めてこの言葉を聞いた時には、「そんなものかなぁ」と思ったものです。
その感覚は、ナポレオン・ヒルさんの代表著作『思考は現実化する』に出会った時も同じでした。
かれこれ10年ほど前ですが、「だったら苦労しないよ・・・」というのが当時のわたしの反応。
ただし、「いつかは、そういう感覚がわかるようになるのかも・・・」という、漠然とした期待もありました。

どんな分野でも、踏み出した時には、雲をつかむ感じがするものです。
しかし、やがて少しづつ手応えが出て、最終的には腑に落ちる瞬間がやってきます。
それこそ『一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」 😊

森信三さんの言葉も、ナポレオン・ヒルさんの著作名も、『世界は自分の意識の投影である』ことが納得できれば、むしろ『当たり前』に感じられてきます。
外界と自分を完全にわけるのではなく、それが地続きになっている感覚です。

そのイメージを理解するには、コップに入った水を飲むたとえがわかりやすいでしょう。
手に持っている時には『水=自分』とは考えにくいものですが、口にふくんだり、飲み込んだりすれば、その水は完全に『自分の一部』になります。
逆に、その水がおしっこになって出た時には、『自分の一部』ではなくなる感じですが、不思議ですよね。
一瞬前まで、自分だったはずなのに 😊

つまり、そのイメージをふくらませていけば、実は『自分』という境界があいまいなことが腑に落ちてきます。
わたしはまだそこまでの境地には達していませんが、それもまた「いつかはわかるようになる」のかもしれません。

そろっていることは美しく、違っていることはおもしろい

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全人類は補欠化する

例によって岡田斗司夫さんの動画ですが 😊
この『全人類は補欠化する』という予想も、確度の高いものだと思います。
というか、『人は地球上でもっとも賢い(と、自分で思える)存在ではなくなる』という、わたしの見立てと全く同じなので、なおさらそう感じるのでしょう。

岡田さんが指摘しているのは、ほんの少しの最上層(=レギュラー)を除いて、ほとんどの人が補欠的な役割をになうという状況。
この『補欠』という表現が絶妙ですよね。
退部とか、除籍といったハードな否定ではありません。
つまり、AIがすべてを支配するとか皆殺しにされるといったイメージではなく、ぬるく生かされている感じです。

岡田さんはそれを『ゆるいユートピアのようなディストピア』と表現されています 😊

実は、この問題はAIに始まったことではなく、昔からあります。
そのものズバリ、スポーツにおける補欠の心情。
あるいは、甲子園に行けなかった数多あまたの高校球児たちの思いです。
それを、どう考えるのか?

仮に、『優勝だけに価値がある』と規定してしまうと(もちろん、それを目指すわけではありますが)ほとんどすべての人の存在は否定されてしまいます。
しかし、人にはもっと大切にしたいものがあります。
AI時代は、その『大切にしたいもの』に正面から向き合うことになるわけです。

たぶん、これまでの時代以上に『感謝』『希望』が人を輝かせていく。
AIがもたらすのは、そうした社会だと思います。

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忘れられる人のカッコ良さ

このところ、「過去と未来は記憶において、ほとんど等価だなぁ」という感覚を持っています。
物理的な世界では、過去につくられたは存在し、未だつくられていないは存在しないので、過去と未来は別ものです。
一方、たとえば目を閉じて考える『過去』『未来』はどちらも記憶の中だけに存在し、あまり違いがありません。

ところで、自己啓発では『過去と他人は変えられない。変えられるのは未来と自分』と説かれます。
変えられないものに執着するから苦しいのであり、「自分で変えられるものに集中しましょう」という教えです。

しかし、『今、ここにはない』という意味では、過去も未来もほとんど等価。
そのため、上記の成句は入れ替えられることもありますね。
人によっては、『過去(の記憶)は変えられるけれど、未来(の運命)は変えられない』と言われます。
ややこしい 😊

以前、友人から「バカの特徴は、覚えられないことと忘れられないことだ」と教えてもらいました。
『覚えられない』方は、イメージしやすいですね。
『バカ』という言葉の響きはよろしくありませんが、物覚えの悪いことは確かに能力の不足を感じさせます。

しかし、AIが発達して秘書になってくれれば、そのマイナスはかなりリカバリーされるはずです。
すると、残るは『忘れられない』こと。
これからの時代のフロントランナーは『忘れられる』人かもしれません 😊

わたしは『刻石流水/受けた恩義は石に刻め、かけた情けは水に流せ/借りた金は必ず返せ、貸した金は忘れてしまえ』という言葉が好きですが、水に流せる人ってカッコイイですよね。
それかな。

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王のマントは白くなる

あまり知られていない言葉ですが、『王の血染めのマントは三代目で白くなる』という一節があります。
どんな分野でも、『初代』は強い覇気に満ち、攻撃的な気質を持つものですが、代替わりを重ねるうちにその気質が薄れることの指摘です。
孫の代になると、血生臭さが抜けるわけですね。

道なき道を切り開く初代にも、その道を整備する二代目や三代目にも、それぞれに魅力があり、おのおのに苦労があります。
どの世代が善い悪いではなく、各自に役割があるわけです。

戦後、「武力闘争には負けたけれど、経済闘争で見返してやる」と考えた世代を初代とすれば、二代目を経て、今は三代目なのかなぁ、と思います。
前の世代から見れば、やる気がないように見えるかもしれませんが、Z世代やα世代がまとっているマントは白いんですよね。

つまり、いろんな社会課題は『三世代の同居問題』なのかもしれません。
願わくば、お互いの世代に敬愛と相互理解がありますように……

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西洋美術史とはレシピである

わたしは岡田斗司夫さんを『現代日本の最高の知性の一人』だと思っていますが、昨日見た動画も大きな示唆にとんでいました。
テーマは『西洋美術史』ですが、いかにそれが日本人にとって関係ないものであるかを、例によって、おもしろおかしく語ってくれています 😊

わたし自身は、小さい頃から絵を描くことが好きだったので、長じて美大に進み、西洋美術史をガッツリ学びました。
思えば、その『日本人に関係のない教科』に通じたことが、人と違った指向に拍車をかけてしまったのでしょう 💦

ともあれ、その勉強は完全にムダだったわけでもありません。
上記動画では、ヨーロッパの歴史/近代主義を理解する上で、力の中心がキリスト教関係者から王侯貴族にうつり、やがて市民にまで解体されていく過程について語られていますが、そのダイナミズムを美術ほど端的に感じさせてくれるものはないからです。

大雑把に言えば、こんな流れになります。

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世界の中心は神であり、キリストでした
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やげて『力』は、神/キリストから教皇へ
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さらに、教皇から王侯貴族へ『力』がうつると……
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市民「やってらんねぇ!」= 革命が起きました
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市民文化の開花

日本は、以上の流れを自分たちでは体験しないまま、明治維新で丸っと輸入したわけです。
輸入をした以上、岡田さんが誇張して言われるように「全く関係ない」わけでもないんですが、ありがたさが薄いことは事実ですね。

こんな風にも考えられます。
モダニズム/近代主義をひとつの料理だとすれば、西洋美術史はレシピにあたる、と。
見よう見まねで再現できる人もいれば、本場のレシピを知りたい人もいるでしょう。
西洋美術史を学ぶとは、わたしたちの生活の土台を知ることだと言えます。

ちなみに、「日本人には関係ない」と言いつつ、岡田さん自身はそのレシピに通じているからこそ、先が見通せているんですね。
『評価経済社会』の先見性とか、本当に見事です 😊

▲ この動画の18:20あたりから。圧巻です 😊

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