日本人の定義としての『日本語』

このところ、世代間の感覚の違いについていろいろと考えていますが、逆に共通項の希望もあります。
それは『日本語』です。

もちろん、これまた世代によって使い方やニュアンスは違いますが、相違点にばかり着目していると、人は不幸になりがち。
「あなたとわたしは違います」という感覚は、端的に分離意識なので、その果てにあるのは孤独だからです。

一方、共通点にフォーカスすると、人は『つながり』を感じられます。
たとえ細かい要素は違っても、『日本語』という大枠を共有していることの安心感と希望は遠大です 😊

ちなみに、わたしは『日本人』の定義を『日本語をつかう人』としたらいいんじゃないかと思っています。
というのも、『人=民族』という公式にはいろいろとややこしい、そして悲しい歴史がからみ過ぎるからです。

また、「日本で生活している外国生まれの人」「外国で生活している日本生まれの人」のいずれも包括できる概念は何なのか? と問う時、『言葉』は魅力的な鍵になってくれます。
ある意味で、言葉は『道』に近いのかもしれません。
それを極めた人も、そこに最初の一歩を踏み出した人も、『道』はひとしく『その地平を歩む者』と定義づけてくれるからです。

茶道、書道、剣道、柔道・・・
にならって言えば、『語道』かな? 😊

さらに言えば、宇宙への進出が当たり前になれば、『国境』という物理的な境界は国家の輪郭りんかくとしての意味を失います。
その時、『日本人』の規定は、『日本語をつかい、日本の法を遵守する人』になるはずです。

言葉の歴史に感謝し、言葉の未来に希望をいだくことは、人生の幸せに通じるのではないでしょうか。

そろっていることは美しく、違っていることはおもしろい

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